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昨日は、北条時頼(1227-1263)と近松門左衛門(1653-1724)、徳川慶喜(1837-1913)の命日でした。
北条時頼は、鎌倉幕府の第5代執権で、時氏の子で、母は松下禅尼(ぜんに)です。 1246年に執権就任直後、一族名越(なごえ)光時の陰謀を砕き、翌年三浦氏を滅ぼしました(宝治(ほうじ)合戦)。 1249年に引付衆を置き、裁判の迅速公平を図り、幕政の発展と北条氏の権力確立に努めました。 出家してからは最明寺殿と呼ばれていました。 諸国を回り、民政を視察したという伝説があります。 近松門左衛門は、江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者で、本名は杉森信盛といい、別号は平安堂・巣林子などありました。 父が浪人したため、京に出て公家一条家などに仕え、のち近江(おうみ)近松(ごんしょう)寺に遊学したともいわれています。 1683年の《世継曾我》が最初の作といわれ、1685年には竹本義太夫に《出世景清》を書き、以後二人の協力関係がはじまりました。 1693年から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供し、藤十郎の没後は浄瑠璃に専念し、竹本座座付作者となっています。 古浄瑠璃から脱却し、新浄瑠璃を確立した功績は大きいものでした。 その芸術観は、虚実皮膜(きょじつひにく)論といわれています。 代表作は《曾根崎心中》、《冥途(めいど)の飛脚》、《心中天の網島》、《女殺油地獄》、《国性爺(こくせんや)合戦》などがあります。 徳川慶喜は、江戸幕府15代将軍(1866年-1867年)で、水戸徳川斉昭の七子で、一橋家の養子でした。 尊攘(そんじょう)・幕政改革派に擁され、家茂(いえもち)と将軍継嗣を争いましたが実現せず(将軍継嗣問題)、1858年に安政の大獄の際に蟄居(ちっきょ)を命じられました。 1860年に井伊直弼の死後、家茂の後見役になっています。 1866年に将軍就任とともに、フランス公使ロッシュの助言を取り入れ、改革に着手しましたが、権力挽回はならなかったようです。 1867年の大政奉還後、鳥羽・伏見の戦ののち恭順し、江戸を閉城し、1902年に公爵となっています。 ちなみに外国では、1963年にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された日で、ジョン・F・ケネディの命日でもありました。 PR |
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