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ハイドン今日は、古典派音楽様式の確立に大きく貢献した、オーストリアの作曲家、ハイドン(1732-1809)の生まれた日でした。

7歳で、ウィーンのシュテファン聖堂児童合唱団員となりましたが、声変りのため16歳でやめ、その後、約10年は安定した職を得られず、放浪生活を送ったといわれています。

1761年にアイゼンシュタットに住む、ハンガリーの侯爵エステルハージに副楽長として仕え、1766年に前任者の死により楽長に昇格しました。
以後、約30年間この地位にあって、多くの作品を書きました。
中でも、交響曲(第7番~92番)や、古典ソナタ形式の確立を示す、6曲の弦楽四重奏曲《ロシア四重奏曲》(1781年)は重要なものです。

1790年に楽団解散のため、再びウィーンに戻りましたが、1791年―1792年、1794年―1795年には興行主であるJ.P.ザロモン〔1745-1815〕の招きに応えて、ロンドンで演奏会を開き、第93番~104番の12曲の交響曲、いわゆる《ザロモン・セット》(驚愕(きょうがく)、軍隊、時計、太鼓連打、ロンドンなど)を初演して成功をおさめました。
その後、6曲のミサ曲(1796年-1802年)、オラトリオ《天地創造》(1796年-1798年)、オラトリオ《四季》(1799年-1801年)などの大曲を完成させました。

モーツァルトとは、年齢差をこえた友情を結び、その偉大な業績は、ベートーベンによって継承されました。
ほかにも、有名なチェロやトランペットの作品をはじめとする、数多くの協奏曲、器楽曲、室内楽曲、オペラ、カンタータ、歌曲があります。

弟のヨハン・ミヒャエル・ハイドン〔1737-1806〕は、1763年以降、ザルツブルク大司教宮廷に仕えた作曲家で、モーツァルト父子ともに交流がありました。

数多くの教会音楽のほか、交響曲、協奏曲、室内楽曲を残しました。
なお、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品は、オランダの音楽学者であるA.vonホーボーケン〔1887-1983〕による、ホーボーケン番号(略してHob.)で一般に呼ばれています。

ハイドンは、晩年でも意欲は衰えることは無かったようです。
1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になっていました。
これは、新しいアイディアが次から次へと湧いてくるハイドンにとって、耐え難いものであったことは間違いないでしょう。
晩年はほとんど、ハイドンは使用人に看護してもらい、ハイドンのもとにはたくさんの見舞いの客が訪れましたが、この時期はハイドンにとって、少しも楽しいものではなかったようです。
ハイドンは、時々ピアノに向かい、自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌を弾くことを慰めとしていたようです。

1809年にハイドンは、ナポレオンのウィーン侵攻に伴い、死去しました。
ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して、混乱している使用人たちを、なんとか落ち着かせて、不安を拭い去ってあげようとするものであったといわれています。

遺体はアイゼンシュタットにありますが、ハイドンの遺体には首がなくなってしまい、しばらくたってから見つかった、というエピソードがあります。未だに謎です。
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