みなさんで雑学しましょう!
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昨日は、明治維新の指導者であった西郷隆盛(1827-1877)と、歌人であった与謝野晶子(1878-1942)の生まれた日でした。
西郷隆盛は、薩摩鹿児島藩の下級士族の出身でした。 通称を吉兵衛、吉之助といい、号は南洲でした。 藩主の島津斉彬(なりあきら)に取り立てられ、江戸詰となり、将軍継嗣問題で、一橋慶喜擁立運動に東奔西走しましたが、井伊直弼大老就任とともに始まる、安政の大獄で幕吏の追及を受けて、僧月照とともに帰藩しました。 しかし佐幕論に傾いていた鹿児島藩からも追われ、1858年に月照と投身自殺を図りましたが、助かって奄美(あまみ)大島に流されました。 1862年に許され、尊攘派(尊王攘夷(じょうい)運動)として動き出しましたが、島津久光に嫌われ、沖永良部(おきのえらぶ)島に流されました。 1864年に帰藩後は、禁門の変、第1次長州征伐には藩論を統一し、幕府側に立ったのですが、第2次長州征伐には反対し、討幕派へと転じました。 大久保利通などとともに、王政復古に働きかけ、戊辰戦争を主導し、征東軍の大総督参謀として勝海舟と会見し、江戸城を無血閉城させました。 明治政府では参議となって、廃藩置県を断行しましたが、征韓論に敗れて帰郷し、私学校を開き、西南戦争を起こし、敗れて城山で自刃しました。 波乱万丈の人生だったんですね。 与謝野晶子は、堺生まれで、旧姓は鳳(ほう)といいました。 堺女学校を卒業後、1900年に与謝野鉄幹の新詩社の社友となり、《明星》に短歌を発表しました。 翌年、処女歌集の《みだれ髪》を出して世の注目を集めました。 同年に鉄幹と結婚し、《明星》の中心的存在となりました。 初期の情熱的な歌風は、次第に唯美的・幻想的となって、《小扇》、《毒草》(鉄幹と共著)、《恋ごろも》(山川登美子らと共著)、《舞姫》などの歌集を出しました。 日露戦争中の反戦的な詩〈君死にたまふことなかれ〉も反響を呼びました。 また古典の現代語訳も試み、《新訳源氏物語》を刊行していました。 大正期には、広く女性問題、社会問題等の評論にも活躍し、《青鞜》運動を助けたり、母性保護論争に参加するなどしていたようです。 PR |
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