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聖徳太子今日は、[604年]に聖徳太子が十七条憲法を制定した日です。

《日本書紀》では604年に聖徳太子が作ったと伝えています。
法典というよりは道徳律で、和を尊び、仏教を敬い、詔(みことのり)を承(う)けて謹(つつし)むなど、豪族・官人などの心構えを説いています。
日本最初の成文法とされていて、のちの法典編纂(へんさん)に影響を与えました。

聖徳太子というと、いっぺんに10人の人の発言を把握して、即答したと言う、「豊聡耳(とよとみみ)」が有名ですよね。

でも、ちょっとショックなことが・・・。
僕達が学んだ時は、学校の教科書には、「聖徳太子」のみの表示でしたが、その後、教科書の改訂で、「聖徳太子(厩戸王)」という書き方になって、新課程から「厩戸王(聖徳太子)」となり、次期教科書からは「厩戸王」のみの表示となるようです。
一応、これが彼の名前の基準となるみたいで・・・。。

また、聖徳太子の呼称は、後から作られた呼称なので、近い将来使われなくなるそうです。
聖徳太子とは、「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもった太子(皇太子)」という意味なんだそうです。

今から15年以上前には、壱万円札と、五千円札には聖徳太子の肖像画が描かれていました。
今ではその姿は無く(暫くは流通してましたが、今ではごく一部のたんす預金者か、コレクターのみが保持している?)、そして今度は、彼の名前が消えていくなんて・・・。(別に彼の名前は、当時から厩戸王だったのだが・・・)
少し寂しいような気がします。
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1982年にフォークランド戦争が勃発した日であります。
当時は1ドルが230円もした時期でした。
フォークランド諸島の位置
フォークランド諸島は南アメリカのアルゼンチン南端から東方約600kmにあり、大西洋上のイギリス領の島群で、東フォークランド、西フォークランドの2島と約200の小島からなります。
主都はスタンリーで、アルゼンチン名はマルビナスMalvinas諸島といいます。
氷河浸食を受けた低い丘陵地が大部分を占め、荒地、泥炭地が多く、フィヨルドが発達しているのも特徴です。
気候は冷涼で、牧羊が主産業です。
アルゼンチン軍
1592年に英国の航海者J.デービスが発見し、18―19世紀に一時スペイン領だったのですが、1832年以降イギリス領となっています。
イギリスとアルゼンチンの間で領有をめぐる係争が続いてきたのですが、1982年の今日、アルゼンチン軍が侵攻し、イギリスは本国からも出兵し、フォークランド戦争(マルビナス戦争)が勃発したのでした。
両国とも多くの人命(900人以上が戦死)、戦費(当時で約3050億円)を失いましたが、6月にアルゼンチンが敗北して終戦となりました。
ただ、あれから25年たった今でも、アルゼンチンは依然領有権を主張し続けています。
当時使われていた対艦ミサイルAM39エグゾセ
ハイドン今日は、古典派音楽様式の確立に大きく貢献した、オーストリアの作曲家、ハイドン(1732-1809)の生まれた日でした。

7歳で、ウィーンのシュテファン聖堂児童合唱団員となりましたが、声変りのため16歳でやめ、その後、約10年は安定した職を得られず、放浪生活を送ったといわれています。

1761年にアイゼンシュタットに住む、ハンガリーの侯爵エステルハージに副楽長として仕え、1766年に前任者の死により楽長に昇格しました。
以後、約30年間この地位にあって、多くの作品を書きました。
中でも、交響曲(第7番~92番)や、古典ソナタ形式の確立を示す、6曲の弦楽四重奏曲《ロシア四重奏曲》(1781年)は重要なものです。

1790年に楽団解散のため、再びウィーンに戻りましたが、1791年―1792年、1794年―1795年には興行主であるJ.P.ザロモン〔1745-1815〕の招きに応えて、ロンドンで演奏会を開き、第93番~104番の12曲の交響曲、いわゆる《ザロモン・セット》(驚愕(きょうがく)、軍隊、時計、太鼓連打、ロンドンなど)を初演して成功をおさめました。
その後、6曲のミサ曲(1796年-1802年)、オラトリオ《天地創造》(1796年-1798年)、オラトリオ《四季》(1799年-1801年)などの大曲を完成させました。

モーツァルトとは、年齢差をこえた友情を結び、その偉大な業績は、ベートーベンによって継承されました。
ほかにも、有名なチェロやトランペットの作品をはじめとする、数多くの協奏曲、器楽曲、室内楽曲、オペラ、カンタータ、歌曲があります。

弟のヨハン・ミヒャエル・ハイドン〔1737-1806〕は、1763年以降、ザルツブルク大司教宮廷に仕えた作曲家で、モーツァルト父子ともに交流がありました。

数多くの教会音楽のほか、交響曲、協奏曲、室内楽曲を残しました。
なお、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品は、オランダの音楽学者であるA.vonホーボーケン〔1887-1983〕による、ホーボーケン番号(略してHob.)で一般に呼ばれています。

ハイドンは、晩年でも意欲は衰えることは無かったようです。
1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になっていました。
これは、新しいアイディアが次から次へと湧いてくるハイドンにとって、耐え難いものであったことは間違いないでしょう。
晩年はほとんど、ハイドンは使用人に看護してもらい、ハイドンのもとにはたくさんの見舞いの客が訪れましたが、この時期はハイドンにとって、少しも楽しいものではなかったようです。
ハイドンは、時々ピアノに向かい、自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌を弾くことを慰めとしていたようです。

1809年にハイドンは、ナポレオンのウィーン侵攻に伴い、死去しました。
ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して、混乱している使用人たちを、なんとか落ち着かせて、不安を拭い去ってあげようとするものであったといわれています。

遺体はアイゼンシュタットにありますが、ハイドンの遺体には首がなくなってしまい、しばらくたってから見つかった、というエピソードがあります。未だに謎です。
ゴッホ今日は、オランダで生まれ、フランスで活動した画家である、フィンセント・ファン・ゴッホの生まれた日であります。

正しくは〈ファン・ホッホ〉で、〈ゴッホ〉はドイツ語読みにもとづく、日本での慣用だとされています。
また「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記もしばしば見受けられますが、これは劇団民藝の三好十郎による『炎の人-ヴァン・ゴッホの生涯-』という、長期に亘って公演された演劇の影響が大きい、ともいわれています。

後期印象派を代表する一人で、ベルギー国境に近い小村のフロート・ズンデルトの牧師の家に生まれ、中学卒業後、美術商グーピルのもとで働いたり、牧師職につこうとしたりしましたが成功せず、1880年にブリュッセルの美術学校に入学しました。

《じゃがいもを食べる人々》(1885年、アムステルダム、ゴッホ美術館蔵)などのような重苦しい形態と、暗い色彩の修業時代をオランダで過ごしますが、1886年にパリに出て、印象派や浮世絵の影響を受けて、明るい色彩に転じました。

その後、ゴーギャンとの交友・別離を経て、1890年にオーベール・シュル・オアーズで、狂気のうちに自殺を遂げるまで、アルルやパリ周辺の風景、自画像などを好んで描き、奔放なタッチと強烈な色彩により、苦悩に満ちた魂を表現しました。
フォービスム、表現主義に与えた影響は大きいものがありました。

代表作に《星月夜》(1889年、ニューヨーク近代美術館蔵)、《オーベールの教会》(1890年、オルセー美術館蔵)、《烏の群れ飛ぶ麦畑》(1890年、アムステルダム、ゴッホ美術館蔵)などがあります。
また、自画像や肖像画も多く残していて、それを今回載せました。
また、彼を終生援助した弟テオにあてた書簡集は、《ゴッホの手紙》としてまとめられて刊行されています。

1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで、猟銃で自殺を図り(自殺するには難しいとされている、銃身の長い猟銃を用いた事や、腹部に銃創がある事から、不審者を恐れた住人に撃たれたと考える研究家もいます)、2日後に死亡しました。

ケーブルテレビで、ゴッホの映画を見たことがありますが、これらの事項を忠実に再現された秀逸なものでした。
でも、どの偉人もその当時はあまり評価されずに、亡くなったあとに高評価を受けています。
当人達が、現代で自分たちの作品が、高価な取引物だと知ったら、どういう反応を示すのでしょうか?興味深い気もしますが・・・。
ジョルジュ・スーラ
新印象主義を創始したフランスの画家、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)の命日です。

パリ生まれで、美術学校を中退後、兵役を志願しましたが、除隊後絵画に専念しています。
色彩学や物理学に啓発されて、色彩の光学的研究を深め、これに幾何学的構図法を加味して、新印象主義の理論を完成しました。
その理論に基づく《アニエールの水浴》(1883年―1884年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)は、サロンで落選しましたが、アンデパンダン展に出品し、同調者シニャックを得ました。
サーカス
32歳で早逝するまで、理論の深化と実践に努めました。
代表作に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884年―1886年、シカゴ美術館蔵)、《ポーズする女たち》(1887年―1888年、メリオン、バーンズ・コレクション)、《サーカス》(1890年―1891年、オルセー美術館蔵)などがあります。

スーラは寡黙で内省的な性格であったと言われ、私生活については他人に全く語ることがなかったといわれています。
彼は死の直前の1890年に、内縁関係にあった女性との間に一子をもうけているのですが、スーラの母親さえそのことをしばらく知らなかった、というほど秘密主義を貫いていたようです。
グランド・ジャット島の日曜日の午後


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