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1979年の今日、スリー・マイル・アイランド原発事故が発生した日でもあります。

スリーマイル島原子力発電所
略してTMI事故ともいいます。
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故よりは、はるかに小さな事故だったのですが、人類社会が経験した2度の大原発事故のうちの一つです。
事故の程度は国際尺度で5になっています。

スリー・マイル・アイランド原発は、1号炉と2号炉から成っていましたが、事故は2号炉の2次冷却水のポンプが異常で停止したのが発端だったようです。
このため、1次冷却水の圧力が上がり、原子炉が停止し、圧力逃がし弁が開いて蒸気を逃がし始めました。
ところが、この弁が自動的に閉まらず、1次冷却材がなくなり、緊急炉心冷却装置が自動的に働いてしまいました。
加圧水の水位計が満水を表示し、運転員はこれによって炉内も満水と判断して、原子炉への注水を止めてしまったようです。
その結果、冷却水が沸騰して炉心は冷却不能となり、炉心溶融が進んで小規模な水素爆発が起こり始めました。
放射能が外部に放出され、最初は南西、次に北および北西へ流れました。

事故発生の2日後の30日午後零時30分、州知事が原発から8km以内に住む妊産婦、学齢前の子どもと乳幼児に避難勧告を出し、8~16kmの住民に外出を控え戸や窓を閉めて家にいるよう勧告しました。
事故炉からの放射能の漏出は、事故発生から12日目の4月9日にようやく止まり、避難していた約2万3000人が自宅に戻っていきました。
スリー・マイル・アイランド原発の周辺住民の中には、癌患者や癌による死者、甲状腺障害の患者、流産・死産などが目立ち、事故後、癌に罹患したり、出産障害が生じた人など約2000人が電力会社に対して損害賠償請求訴訟を起こし、1994年7月から裁判が行われています。
この原発事故は、冷却材の喪失から炉心溶融に至った典型的な例で、炉心の半分以上が溶融して大規模な水素・水蒸気爆発が起こる一歩手前の状況だったことが後の調査でわかっています。
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昨日は、ドイツの作曲家であったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の命日でした。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ボンの宮廷楽団歌手の子に生まれ、才能をあてにした酒飲みの父にピアノを学びました。
のちボン宮廷のオルガン奏者C.G.ネーフェ〔1748-1798〕に作曲を師事し、J.S.バッハ、C.P.E.バッハらの音楽様式を修得し、1782年には最初の作品を書きました。
宮廷楽団でビオラ奏者として活動したのち、1792年にウィーンに出て、F.J.ハイドン、J.G.アルブレヒツベルガー〔1736-1809〕、サリエリらに学び、以後は他に職をもたず、作曲とピアノ演奏に専心しました。

《ピアノ協奏曲第1番》(1794年-1795年,改訂1800年)、《交響曲第1番》(1799年-1800年)など初期の代表作を完成させました。
一方、1798年ころから難聴に悩み、1802年に【ハイリゲンシュタットの遺書】を書きますが、この苦境を克服して交響曲史上例のない規模の傑作《交響曲第3番・英雄》(1803年-1804年)を完成させ、独自の作風を確立しました。
続く約10年間に、唯一のオペラ《フィデリオ》(1804年-1805年、改訂1806年、最終稿1814年)、《交響曲第5番・運命》(1807年-1808年)、《同第6番パストラーレ(田園交響曲)》(1808年)、《同第7番》(1811年-1813年)、《バイオリン協奏曲》(1806年)、《ピアノ協奏曲第4番》(1805年-1806年)、《同第5番・皇帝》(1809年)、《ピアノ・ソナタ第21番ワルトシュタイン》(1803年-1804年)、《同第23番・熱情(熱情ソナタ)》(1804年-1805年)、《バイオリン・ソナタ第9番クロイツェル(クロイツェル・ソナタ)》(1802年-1803年)、《チェロ・ソナタ第3番》(1807年-1808年)、《ピアノ三重奏曲・大公トリオ》(1811年)、7番から11番までの弦楽四重奏曲(1805年-1810年)など中期の作品群を発表し、ソナタ形式を完成させました。

1815年以後は、弟の子カールの後見人として苦労し、難聴も極度に悪化する中、高度な対位法、変奏曲の手法を中心とした瞑想(めいそう)的作品を書くようになり、ピアノ曲《ディアベリ変奏曲》(1819年-1823年)、《荘厳ミサ曲》(1819年-1823年)、《交響曲第9番(第九交響曲)》(1822年-1824年)、ピアノ・ソナタ第28番~32番(1816年-1822年)、弦楽四重奏曲第12~16番(1823年-1826年)が生まれました。
貴族の娘たちとの交際があり、【不滅の恋人】あての恋文が残っていますが、生涯独身で通したのでした。
チンピラやヤクザ、不良などの意味で、イギリスのサッカー場やその周辺で騒動や暴力沙汰を引き起こす熱狂的なファンをいいますが、1970年代から1980年代にかけて深刻化し、英国では競技場の立見席の廃止や監視カメラの設置などの対策を実施してきました。
1900年代のサッカー
最近では、警備の手薄な国外の競技場に繰り出して暴れ、国際大会の開催国にとって、フーリガン対策は大きな問題となっています。
イギリスの若者文化特有の現象として、フーリガンが登場するのは19世紀末までさかのぼるといわれています。
何千人ものファンを熱狂させ、最後の笛が終わると同時に、観衆が競技場の中になだれこんだそうですが、最近のはそんなに単純なものでもなさそうです。

かといって、いい大人が暴力的なのはどうかとも思います。
紳士的なイメージのイギリス人ですが、ことスポーツに関しては、紳士的ではないんですよね。
紳士的なスポーツを、たのしく紳士的に観戦して欲しいですね。
北大路魯山人
昨日は、篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家であった北大路魯山人(1883-1959)の生まれた日でした。

京都生まれで、本名は房次郎といいます。
初め日本画を志したそうですが、版下書きとして独立、さらに篆刻(てんこく)、古美術、料理、陶芸に興味をもちはじめます。

1925年、東京に会員制の高級料亭〈星岡茶寮(ほしがおかさりょう)〉を開き、美食家として名をはせたようです。
1927年、北鎌倉に星岡窯を設けて作陶をに専念し、志野焼、織部陶、信楽(しがらき)焼、唐津焼その他多種にわたる作品は豪快で格調高いものです。
昨日は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家であったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の命日でした。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
フランクフルト・アム・マインの名家に生まれました。
1770年―1771年にシュトラスブルクの大学に学び、シュトゥルム・ウント・ドラングの理論的指導者であったヘルダーと接触し、抒情詩では《ゼーゼンハイム小曲》、戯曲《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》や小説《若きウェルターの悩み》を発表し、革新的な文学を創造しました。

1775年にワイマール公国の若い君主であったカール・アウグストに招かれ、やがて大臣、宰相となりました。
1786年―1788年、シュタイン夫人との恋や政務の負担をのがれて、イタリアに旅し、《タウリスのイフィゲーニエ》《タッソー》など古典的作風の戯曲を完成しました。
宮廷劇場の総監督も務め、フランス革命鎮圧の軍に従軍した経験から、叙事詩《ヘルマンとドロテーア》(1795年)が生まれました。
また色彩論などの自然科学研究も行っています。

シラーとの友情が深まり、ドイツ古典主義の盛期を現出し、教養小説の伝統を確立した《ウィルヘルム・マイスター(修業時代)》などの小説、《ファウスト》第1部やバラードを書いています。
その間、1789年以来同棲していたクリスティアーネと正式結婚(1806年)しました。
《詩と真実》《イタリアの旅》などの自伝的作品《西東詩集》《マリーエンバート哀歌》など晩年の恋愛体験からの詩を書き、《ウィルヘルム・マイスター(遍歴時代)》《ファウスト》第2部も完成しました。
精神の普遍性と人格の調和ある発展を特色とする生涯、その芸術・思想が、後世に与えた影響はきわめて大きかったのです。


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