みなさんで雑学しましょう!
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昨日は、1763年に七年戦争が終わり、1877年に西南戦争が始まった日でした。
七年戦争は、1756年―1763年にオーストリア継承戦争による、失地回復を図るオーストリアのマリア・テレジアが、フランス・ロシアの援助を得て、そのライバルたるプロイセンおよびその同盟国英国と行った戦争で、植民地争奪をめぐって行われたイギリスとフランスの戦い(フレンチ・インディアン戦争)もその一局面です。 プロイセンは、フリードリヒ2世の健闘で勝利し、そのシュレジエン領有が確認されました。 この際のフランス・オーストリアの同盟は、ハプスブルク家対ブルボン家という伝統的対立を破ったもので、ヨーロッパの外交革命と呼ばれています。 ただ戦争自体、戦争が戦争を呼び、皮肉な結果になることも多々あります。 ある意味、フリードリヒ2世は幸運が続いただけ、という見方をする人もいますが、「戦争」というもの、幸運の女神が微笑まなければ勝てないものだと思います。 西南戦争は、1877年に鹿児島士族が西郷隆盛を擁立して、蜂起(ほうき)した反政府反乱で、征韓論に敗れて下野した西郷は、鹿児島に私学校を設立しました。 当時、鹿児島士族は政府の旧体制解体化政策に反対し、県令大山綱良も私学校を積極的に支持し、一種の独立国的士族支配体制が続いていました。 1876年の神風連の乱や萩の乱・秋月の乱を鎮圧した政府は、鹿児島の情勢を警戒し、1877年2月に鹿児島の火薬局・造船所の爆薬・兵器などを大阪に移転しようとしていました。 これに対して士族の不満は爆発し、西郷を擁した私学校生徒と九州各地の士族約2万5000が、熊本鎮台を攻撃しました。 鎮台兵は、司令長官谷干城(たにたてき)を中心に50日間籠城(ろうじょう)しました。 政府支援軍の田原坂(たばるざか)戦勝を経て、9月24日の鹿児島城山総攻撃により、西郷以下桐野利秋、村田新八らは戦死または自刃しました。 保守的不平士族の最大かつ最後の反政府反乱で、日本最後の内戦となったのでした。 内戦もそうですが、戦争そのものはなくすべきですが、いまだに内戦が続いている国はあります。 文化が違う、考え方が違うといってしまえばそれまでですが、近い将来、世界がまとまることを祈るしかないんでしょうかね・・・。 PR |
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