みなさんで雑学しましょう!
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1932年の昨日、満州国が建国された日でありました。
満州国とは満州事変の結果、日本軍が占領した満州(中国東北部)を領域として成立した、日本の傀儡(かいらい)国家で、1932年の今日、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に建国して中国から分離し、のち内蒙古熱河(ねっか)省も加えたのでした。 首都は新京で、同年9月日本が、次いでドイツ・イタリアなど数ヵ国が承認しました。 1934年に溥儀を皇帝に帝政施行し、参議府を最高諮問機関に、国務院を行政府にしましたが、議会はなく、実権は関東軍司令官兼駐満大使兼関東庁長官指揮下の日本人が掌握していました。 五族共和を標榜(ひょうぼう)、政治結社を禁じ、協和会を上意下達機関としていました。 日本資本が支配し、満州重工業開発その他の合弁会社が軍事工業優先の経済建設を強行していましたが、1945年8月にソ連軍に占領され、日本の敗戦とともに満州国は消滅しました。 PR
1953(昭和28)年の昨日、時の首相・吉田茂が衆議院予算委員会で、西村栄一議員の質問に対して興奮のあまり「バカヤロー」と発言しました。
これがもとで内閣不信任案が提出・可決され、この年の3月14日に衆議院が解散しました。 いわゆる「バカヤロー解散」の日でした。 吉田茂は、竹内綱の五男で、吉田健三の養子となっています。 東大を卒業後、外務省に入り、奉天総領事,駐伊・駐英大使を歴任しました。 親英米派として軍部から排斥されていました。 1946年に組閣工作中に公職追放となった鳩山一郎に代わって組閣し、以後、一時期を除き1954年まで政権を独占しました(首相在籍日数は第二次世界大戦後では、佐藤栄作についで第2位となっています)。 占領軍の指導の下、戦後日本の立直しを遂行し、単独講和(サンフランシスコ講和条約)を行い、日米安保体制の基本線を敷きました。 引退後も、池田勇人・佐藤栄作ら〈吉田学校〉出身の官僚政治家の陰で大御所的存在であったといわれています。
1657年の昨日、水戸藩第2代藩主の徳川光圀が、《大日本史》の編纂を始めた日でした。
1906年に完成したこの大日本史、本紀・列伝・志・表4部、計397巻226冊からなり、神武天皇から後小松天皇までの歴史を紀伝体で記載しています。 朱子学の名分論の立場にたち、大友皇子(弘文天皇)の即位を認め、南朝を正統とするなどして尊王論の伸張に寄与し、水戸学を生びました。 史料収集、史籍校訂、考証にもすぐれたものです。 光圀が〈名君〉として世間に広く定着したのは、江戸末から明治期で、講談・実録本の流布、演劇化などにより虚構が拡大されました。 逸話を多く含む、伝記《桃源遺事》や《久夢日記》などが実録本《水戸黄門仁徳録》(成立年未詳)に影響を与え、のちの各種の黄門諸国漫遊譚(まんゆうたん)につながりました。 光圀自身の蝦夷渡航、また《大日本史》編纂のため、安積澹泊(あさかたんぱく)(通称覚兵衛で、講釈では渥美格之丞、格さん)、佐々十竹(さっさじっちく)(通称介三郎で、講釈では佐々木助三郎、助さん)が全国に史書を探求旅行した史実が核となって、漫遊譚の虚構はふくれあがったといわれています。 1936年の昨日、二・二六事件が起こった日でした。 みなさんも歴史の時間に何回も聞いたことのあるでしょうが、1936年2月26日未明に、皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件です。 皇道派青年将校は北一輝に接近し、昭和維新の実現をはかり、武力による国家改造を計画しました。 真崎甚三郎教育総監罷免、相沢事件など、統制派の台頭に反発し、皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意しました。 斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、国会、首相官邸などを占拠し、陸軍首脳に国家改造の断行を要請しました。 陸軍首脳は戒厳令をしいたのですが、海軍、財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換し、反乱軍の規定も〈決起〉、〈占拠〉、〈騒擾〉、〈叛乱〉と四転しました。 29日に反乱軍を鎮圧し、首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑に、皇道派関係者を大量に処分し、統制派が実権を掌握しました。 岡田啓介内閣は倒れ、軍の政治的発言権が強化されたのでした。 |
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